農のかたち〜私流〜

常に考え続け 日々積み重ねる

久慈市山形町で、乳牛65頭、和牛35頭を妻、両親と飼養する龍篤さん。高校生の時に両親を助けたいという気持ちから動き始め、現在は就農から10年が経つ。祖父の代から続く酪農と、自ら可能性を感じた受精卵移植による和牛繁殖での経営を進めている。厳しい時期もあったが、常に考え続けることを信念に、経営の形を作り上げている。

親への尊敬と思い

祖父の代から続く酪農家の次男の龍篤さんが就農を決意したのは高校1年生の時だった。中山間地域での酪農経営で、当時は規模も小さく機械化も進んでいなかった。朝、夕の牛舎仕事の他に、牧草やデントコーンなど満足な機械設備がないため人力での作業も多かった。そんな両親の姿を見ていた龍篤さんは「兄は継がないと言っていたので、親を助けたいという気持ちで就農しようと決意した」と、当時を話す。

農場の様子

親の頑張りは日々見ていたので尊敬の気持ちもあった。高校時代は下宿生活だったが週末は実家に戻り、搾乳を手伝う生活だった。また、父と酪農や経営について話すことも多く、今後の経営を考えた時、自分で種付けができるようになればメリットがあることを知った。「発情のタイミングや牛の状態を見ながら自分でできれば受胎率も上がることは理解できた」と話す。

高校卒業後は家畜人工授精師の資格を取るため岩手県立農業大学校へ進学した。もちろん資格を取ることを目的に進学し、家を継ぐことだけを考えていた。しかし、先生から就農する前にどこかで働いて自立することを進められ、地元のJAに就職した。仕事では多くの和牛農家や酪農家へ足を運び、学ぶことも多かった。そして3年目に受精卵移植師の資格を取り、一つの可能性を感じ始めていた。

農場の様子

「当初は3年働いたら就農しようと考えていたが、次に繋がる何かが見つからなかった。今後、実家の酪農を続けていく上で、受精卵移植に可能性を感じた」と、当時を話す。その後、26歳の時に受精卵移植を使った和牛繁殖農家として新規就農することになった。

可能性を信じ続ける

就農時は親戚の牛舎を借り5頭ほどの規模からスタートした。受精卵移植は乳牛に種付けしても和牛が生まれるため、父が経営する乳牛に種付けをした。そして、父と契約を結び借腹料を支払っていた。「中山間地域では草地に限りもあり規模拡大が難しい。酪農を続けていくためにも受精卵移植の技術の必要性と相性の良さを感じた」と話す。

一方、実家の牛も決して良い状態ではなく、牛の更新や機械や設備の導入など課題も多かった。一度に改善できる資金があるわけでもなく、無理のないよう地道に牛の更新や機械の導入を進めていった。そして、5年目に新たな牛舎を建てることができた。「受精卵移植は雌種のみを使うことで計画的に自家更新が可能になり改良にもつながる。また、和牛の親牛が少なくても和牛が生まれるので年間の頭数確保にもつながる」と話す。龍篤さんが考えてきた経営戦略が形となり始めている。そして、令和8年1月には、父から酪農の経営を譲り受けた。

農場の様子

現在は作業時間や品質を考えデントコーンの刈り取りは委託し、ゲノム解析も導入する。就農から10年経つ今も「失敗と成功の繰り返し」と話し「両親もいつまで元気にやれるか分からない。今は我慢の時期だが、牛舎の建設や機械化も考えていきたい」と話す。常に考え続け、地道な日々を積み重ねてきた10年。更なる理想も描き始めている。

農場の様子

家畜人工授精師の資格を取るために農業大学校に進学した龍篤さんは、当時は何となくやっていた作業の意味を学び、同じ酪農を志す多くの仲間と知り合った。その同級生は、今でも相談できる仲間として大切な存在となっている。また、今では定期的に獣医や関係者との交流の場を作り、情報交換をしている。それが、常に考え続ける龍篤さんの答え合わせの場にもなっている。

プロフィール

安堵城 龍篤

安堵城 龍篤 あんどしろ りょうとく さん

お酒が好きで、妻と一緒に飲む時間が楽しみで忙しい中でも頑張れる理由の一つです。

※広報誌「夢郷」 2026年5月号掲載時の情報です。掲載情報が変更となっている場合がございます。